20251009
久しぶりに書こうと思い立った。下書きは何度か書いたけれど結局書き切らなかった。誰に向けてでもない近況報告というか。
頭の中がごちゃごちゃしやすい人間にとっては、ChatGPTは思考の整理を行う上で最高の相手だ。とにかく思ってることをガッと書き出して、壁打ちしつつ整理していく、というのをよくやっている。どうしても整理のされ方が既存の枠組みに沿った形になるというか、常識的な感じになってしまうけれど、まあ日常的にはそういう答えでいい。LLMは仕組み上、人間の常識を抽出したようなものだと思うから、自分を社会に寄せたい時には重宝する。 逆に、曲げたくないところとか自分の中で答えを出したいことは、そもそも書かない、AIの言うことに耳を貸さない、のが大事なはずだ。放っておくとLLM産の言葉しか発せなくなってしまう。すぐ例文とかアドバイス出したがるので。
もっと若いうちからChatGPTがあったとしたら全く違う発育をしたんだろうな。
最近はPUNPEEをよく聴いてる。あと、バルカン半島とか東欧の音楽。なんとなく異国っぽいショート動画を好んで見てたら「バルカンあるある」みたいなものばかり流れるようになってきた。バルカン出身ならみんな知ってるらしいアンセム(Sinan Sakic - Ej, od kad sam se rodio)も知れた。東欧の寂れた建築をバックにした動画で大抵鳴ってるのはMolchat Domaというポストパンク(?)のバンドの曲。元々doomer musicみたいな括りで聴いたことがあったが、改めて聴くと陰鬱さで溺れそうになる。
「暇と退屈の倫理学」という本を読んだ。「東大生京大生に一番読まれてる本!」みたいなのが、帯ではなくカバー自体に印刷されてて、恥ずかしくなって外してしまった。
人類の歴史から見ると、人間が定住を始めたのはほんのつい最近で、ずっと移動しながら生活していた。だから人間はゴミをきちんと捨てたり決まった場所で排泄したりするのが苦手なのだ、という論(「定住革命」)は面白い。そして同じ場所に住みつづけることで、人間は退屈するようになってしまった。科学技術の発展もそれにブーストをかけているだろう。
他にも消費社会の話であったり、退屈の三つの形態の話であったり、人間と動物の違いの話であったり、全部通して面白く読めた。 この本的に言うと、自分は基本退屈の第二形式にいるけど、たまに退屈の第三形式のモードになり、退屈の声に耐え難くなって「決断」をして、仕事や締切の奴隷となり、それが逆に退屈の第一形式を生み出してる、という感じぽい。 一生退屈だろうけど、自分が良いと信じることを色々やっていくしかないなという気持ち。
このような人文系の本、たまに読むくらいだけど一文一文の語っている主語が大きくて、読んでいて気持ち良くなってしまう。具体と抽象の行き来のうまさ。良くも悪くも人の思想を容易に変えてしまうような力があると思った。
毎晩DAWを触るやつをやっている。前書いた記事で、電子音楽から一旦離れます、みたいなことを言った気もするが、色々客観視できるようになって、好きなサウンドがなんなのか、というのをまた追求したくなった。移り気が激しい性格で困る。電子音楽とロック、って二分法で分けるものでもないしな。
もう長いこと自分のアカウントで曲を上げていなかったが、サンクラなどを覗くと、結構最近にも通知が来ていたり、数人でも聴いてくれてる人がいて。出してみるもんだなという感じ。公開ボタンをまた押したい。次止まりますボタンくらい押したい。
ドパガキ(ドーパミン中毒のガキ)、という造語を少し前から聞くようになってきた。個人的には、あって良かった寄りの言葉な気がする。 こういうセンセーショナルな造語は便利な悪口として無駄に使われがちな面があって、あんまり好きじゃなかったけれど。 語感の良さのおかげで、ドーパミン中毒という概念が広まるのであれば、それは良いことに思える。 なぜなら、私自身がドーパミン中毒のガキであり、ドーパミン中毒という概念を知って以降、意識的に一つの症状として対処できるようになったから。昔に比べてマシにはなったと思う。脳内物質のことを意識しながら生きるのってちょっと味気ない感じもあるけど(美味しいからではなく、ビタミンのためにサラダを食べる、みたいな)、悪影響が大きすぎるから仕方ない。
同世代の99.9%より長い時間ラブソングを聴いていると思う。いい曲、特にメロディが優れた曲は大抵ラブソングだ。ラブソングを聴いてる時、妄想をすることで脳内で恋愛が行われているから、自分は恋愛経験豊富といえる。 もし真のラブソングを書けたとしたら、それが人生のゴールかもしれない。
自分は常に何かを作りながら生きざるを得ないんだろうな、というのを、薄々察してきた。逃れられていた気になっていた時期もあるけれど。 思えば、中学生の頃から「暇」が怖くて仕方なかった。常に何かをしていたいのだけど、その何かがわからない。今思うと、友達を作って遊んどけ、という感じなのだが、当時はとにかくゲームを極めようとしたり、ひたすらインターネットの情報を頭に入れることに費やしていた。 でも、そうやって時間を潰そうとしても何か満たされないものがあり、それを埋めてくれるのがパソコンで何かを作ることだった。ゲーム、音楽、ソフトウェア、お絵かき。 そして、「何かを作る期間」がひと段落つくと、癒しを求めて自然に向かったりする期間が入る。そうしてもう2度とやらんわ、となるのだが、衝動や謎の外的要因によってまたなんか作って、というサイクル。仕事とか趣味とか関係なく、台風みたいにやってくる「作らなきゃ」な期間からは逃れられない、ということに気がついてきた。今です。