sokuseki blog

20250618

6月中旬、梅雨入りして間もない気がするが、たいへん暑くなってきた。朝の空気や日陰はまだ優しいけれど、歩いていると日光が容赦なく照り付けてきて、段々髪の毛が焼き付いていくような心地だ。自律神経は乱れるし身体的には嫌ってもおかしくない季節なところ、なぜか心の底ではワクワクしている。毎年毎年、暑くてたまらないはずなのに、浮足立っては夏の音楽のプレイリストを作ったりしてしまう。


夏目漱石「三四郎」を読んだ。「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」という一文から一気に引き込まれた。 読んでいるときの感覚は、意外にも最近のラブコメとかライトノベルを読んでいるのに近かったかもしれない。三四郎の煮え切らないパーソナリティは典型的なラノベ主人公に通じるところがあり、「え?なんだって?」を地で行っている。逆にラノベとの違いとして、喋りすぎないところと豊かな情景描写から来る色気を感じた。

広田先生や画家の原口さんの講釈に時折現れる鋭さにはっとなる。ストーリーの本筋には関わらないが、十一章の広田先生の夢の話が好きだ。

全体として現代にもあるような話や普遍的な部分が多く、自分事として読める作品だった。夏目漱石の作品をちゃんと読むのは初めてだったけれど、100年経っても全く色あせないのはさすがだ。

三四郎の話を友人としていたところファム・ファタルの話になり、「悪女入門」という本をすすめられた。入門シリーズ強さランキングがあるとしたら、オライリーの「入門 監視」といい勝負をするタイトルだと思う。そのうち読んでみよう。


妙な夢を見た。「にらめっこ押し相撲大会」で優勝して57万円の賞金をもらう夢である。にらめっこ押し相撲というのは、押し相撲をしながら相手を笑わせようとし、先に転がるか笑うかしたら負け、という、おそらく自分の夢オリジナルのゲームである。今の知り合いも昔の知り合いも問わず大量の人が参加していて、ちょっと走馬灯みたいだと思ってしまったが、こんなふざけた走馬灯があったら愉快だ。トーナメント形式で進んでいき、なぜか対戦相手は自分の真顔を見て笑って負けていく。最後の決勝戦は見たことのない子供だったが、よく見ると昔の自分のようで、幅優先探索がどうのMIDIがどうのと呟きながらニヤニヤしていた。そして決勝戦では、お互い微妙に視線をずらして均衡を保っていたところで「こっちみて♡」と言ったら勝った。決勝が昔の自分というのは漫画的にはアツい展開だが、全く映えない絵面なので漫画家の手腕が問われることになるだろう。

人に話すには支離滅裂すぎるけど忘れるのはもったいない感じの夢だったので、ここに記録しておく。


BeRealのアカウントを持っている。たまに開いては一番下までスクロールすると、さっさとこんなアプリ閉じて現実に戻りなさい、といった感じの文章(毎回異なる)を見ることになる。アプリを見るほど広告収入は増えるはずなのでそれでいいのかとも思いつつ、BeRealという名前を考えると筋は通っていて面白い。


前に友人から、お前は典型的な"エモ"が好きなオタクだ、ということを言われて妙に納得した。典型的な、というのは世間で少なくない人数から"エモい"ものとして好まれているような作品を素直に(無批判に、ともいえる)楽しんでいるところを指している。ある種のステレオタイプに自分から当てはまりに行っていたところはあるかもしれない。Twitterで得られる情報は多く、いくらでも人の趣味のトレースができてしまう。無意識にでも、何となく多くの人が摂取しているコンテンツが分かってきて、じゃあ自分も、となることが多かったように思う。もちろん「多くの人」といっても無差別に選んだ人々ではなく自分で選んでフォローした人たちなのだが。人に勧められた以外で自分から堀りに行っているのは音楽くらいしかなく、好きなコンテンツを列挙したりすると他人の影響が多く出てきて、自分の場合はそこに"エモ"という共通項が見られるのだろう。

知るルートが他人からなのはともかくとして、一人称であるべき感想などが他人基準になりがち、というところはあるのかも。映画を見終わった後、自分の感想を整理する前に感想ブログを読み漁ったりしてしまう。見た時の感覚がそのまま冷凍保存できればいいのだけど。例えば「三四郎」も調べてみると、有名なだけあって考察や解釈を書いた大量の文献・ブログが出てきて、それぞれ読み応えがある。「古典」「名作」とされるようなものを好みがちなのは、感想や評論の蓄積も含めて楽しめるからというのもあるだろう。少し不純かもしれない。