20250602
ブログを始めることにした。理由はふたつある。
まず、移動時間が暇すぎるから。本を読んだりして過ごそうとしたこともあったけれど、1冊読むには短すぎる。章の途中で電車を降りなきゃいけなかったりすると悲しい。アニメも同様で、入れる方の娯楽は電車と食い合わせが悪いみたいだ。じゃあなんか書くのが良いんじゃないか、ということになる。
もうひとつは、言葉にする、ということから逃げてきた弊害が出てきているから。歌詞のない音楽、特にエレクトロニカやアンビエントを好んで聴いたり作ったりしてきたが、その時の感覚は言葉では説明しがたい。ある種の魔法のようなものだ。そのような音楽の紹介文がピンと来ることも少ない。音楽の感想をツイートする時も、言葉にするのは野暮だと思い「良い」一言で済ませたりすることを続けていた。結果として音楽以外の一般のことについても、言葉にして他人に分かるように伝える、という脳の機能が弱ってしまったように感じている。あいにく日常では音楽だけでコミュニケーションを取れることはなく、伝えたいことがあったら言葉にする必要がある。
漠然と嫌っているものと、漠然と好んでいるものがある。前者は例えば今のツイッター、から揚げにレモン、車、右向きに寝転がる、スーツ。後者は例えばbluesky、焼き鳥に塩、自転車、左向きに寝転がる、ネルシャツ。理由を説明しようと思えばできると思うけれど、たぶん他人を納得させることはできない。これが好きで~とか話してなんで?と聞かれると、10秒ほど黙ったのち、こういうところが好き、と答えることはできる。でもその要素がなんで良いのか?と聞かれたとき、なんか良いんだよね、としか言えなくなってしまうだろう。
言葉が出てこないのは、考えが足りてないから言葉が出ないのか、考えを言葉にする能力が足りないのか、はたまた人間の脳は言葉のレイヤーの上でないと思考が進まないようにできているのか。考えが言葉の表面を滑っているような感覚になることもよくあるから、言葉のレイヤーでこねくり回していてもだめなのかもしれない。
とりあえず、文章を書くことに慣れよう。言葉と和解する練習みたいなものだ。
この前、10年以上前に更新が止まっている、どこかの企業で開発職をしながら好きな音楽をいっぱい紹介していたサラリーマンのブログを見つけた。好きな歌詞の一節を検索したら出てきた。サラリーマン生活の話、政治に対する意見、昔の思い出、そして好きな音楽についての語りが気ままに書かれて残されていた。個人的な日記が野ざらしで落ちているのを読む、みたいな感覚だったけれど、なかなか読ませる文章で面白かった。 インターネットの好きな部分は、自分に見られることを予期していないような、どこの方向を向いて作られたのか分からないようなものと偶然出会えるところだ。だからブログ文化は結構読む側として楽しんでいた。今度はどこを向いているのかよく分からない記事を自分が残していく番なのかもしれない。作っている音楽とかもその枠になりつつある。
最後に、書きながら聴いていた音楽の、印象に残った歌詞を引用する。言葉にすることについての話をしてきたが、歌詞の良さを言葉で語ろうとは一切思わないのは不思議だ。すでに言葉としてそこにあるからか。
変わっていく空や道に 周波数を合わせ
眺めて聴いてみたり 泣いたり笑ったり
Liberal & Cripple - Stars of someone
自分に騙されぬように 君の声を聞いていた
家主 - NFP